#4 Beyond Everyday

⽇々の失敗を糧に変化できた者
こそが、進化できる

株式会社ビー・ワイ・オー

代表取締役社長 中野 耕志 氏

⽇本で初めて“和⾷居酒屋”という業態を⽣み出したBYOは、「和⾷・酒 えん」や「菜な」、「おぼんdeごはん」など、国内外で約120店舗を展開。常に変化する時代の中で新しい「和」、上質な「和」を追求している。

この記事では、既成概念にとらわれない新しい価値を⽣み出す事業を展開してきたBYOの中野社⻑が、ビジネスや⼈⽣で乗り越えてきたもの、⾏動哲学とは何かこれまでの軌跡から紐解く。そして、中野社⻑が考える壁の乗り越え⽅「Beyond Everyday」に迫る。


「美味しさ」の魅⼒に⽬覚めた少年時代。

中野社⻑は、どのような幼少時代を過ごされましたか?

東京の⾚坂で育ったのですが、両親が外⾷好きで⼦どもの頃から、お寿司や中華、イタリアンなどの専⾨店によく連れて⾏ってもらいました。そのおかげで⾷への意識は知らず知らずの内に芽⽣えていったので、親にはとても感謝しています。今でもお店に料理を⾷べに⾏った時の情景が⽬に浮かびますし、何よりワクワクした気持ちは鮮明に覚えていますね。

特に高校時代の経験は、今も⼤きく影響しています。当時、祖⺟と⼀緒に暮らしていたのですが、友達が遊びに来た時に私が料理を作って振る舞うと、「美味しい!」と皆⾔ってくれて、すごく⼼地良かったんです。チキンやトマトを炒めたような簡単な料理だったのですが、⼈が喜んでいる姿を間近で⾒られる初めての体験でした。その頃から、「美味しい」という⾔葉は私の中で特別なものになった気がします。

思春期時代に⼤きく受けた物事はございますか?

⼩・中時代は野球ばかりしていたのですが、⾼校は六本⽊の近くで様々な学校の友⼈が出来て刺激を受けました。ファッションなどの新しいカルチャーに⽬覚めていったのがこの頃です。当時、⽤賀にあったイエスタデイという伝説のファミリーレストランは衝撃でした。美容、ファッションなどクリエイティブな⼈達がたくさん集まっている場所で、そこに⾏けば何かが⽣まれるという感覚もあった。⼈、⾷事、空間から刺激を受けることがすごく⾯⽩かったですね。ファッションと⾷はセットなのだ、という気付きも得られました。この幼少期から思春期にかけての経験が、今の経営者としての⾃分の根っこにあります。

トルコ イスタンブールにて
ホテルのキッチンで和食を提供

ベルギーにて

フランス パリにて

⾷⽂化を通して多様な価値観に触れた、ヨーロッパでの料理⼈時代。

その後、中野社⻑は料理⼈として海外に進出されます。

⽇本で料理⼈として働き始めていたのですが、英語を覚えようと思い海外に⾏こうと思ったんです。ところが、ビザの関係でアメリカに⾏く予定が、ドイツに変更になったので、結果的に英語ではなかった(笑)当時のドイツはまだ⻄と東に別れている時代ですし、イメージがわかなかったのですが、⾃分の貯⾦をはたいて24時間かけて向かいました。

ドイツでは料理⼈として和⾷店で仕事を始めて、朝6時から夜遅くまで⻑時間でかつ極寒の地で、本当に重労働でした。正直めげそうになったこともありますが、空港で⾒送ってくれた友⼈の顔を思い出すと帰れない(笑)師匠は伊藤⽂夫さんという和⾷をヨーロッパに普及をされた伝説の料理⼈で、私は出張部隊の助⼿として、フランス、ベルギーなどあらゆる国々を巡りました。様々な国の料理と⽂化に触れる中でより料理が好きになって⾏きましたね。

貴重なご経験をされたのですね。

そうですね。⾷⽂化は⼈間を表すものだと感じたのもこの時でした。ドイツは海がないので⽣⿂を⾷べないなどのルーツも⾒えます。フランスに魚を買いに行った時、⼀泊1,500円くらいのボロ宿の朝⾷で⾷べたコーヒーとクロワッサンの味に感動するなど、多くの新鮮な経験ができました。

当時、印象的だったことはございますか?

旧東ドイツに出張したのですが、かなり厳重に検問されていざ向こうに⼊国した時の景⾊が今も忘れません。空を⾒上げると⻄ドイツと同じ⾊をしているのに、東の街は珈琲⾖の袋のようなセピア⼀⾊で、まるでタイムスリップしたかのような感覚でした。世界ってこんなに違うのかと衝撃的でしたね。⽇本では常識が⼀つなのに、異国の地では常識が⼀つじゃないことも学びました。

2011年には、世界の食トレンドに最も影響力のある国際会議 Worlds of Flavor International Conference and Festival (通称WOF)に登壇

既成概念にとらわれない⾷の価値を提供。

中野社⻑は、帰国されてからBYOにご⼊社されます。

はい。BYOの創業者とは池袋の出店が決まった頃に、初めて会いました。出店を予定していたビル内には洋⾷店が多かったため、和⾷でスタートします。それ以降、創業者と私は⼆⼈で事業の可能性についてよく話をしていました。

1996年に「和⾷えん」の出店を本格的に開始され、話題になります。

私が30歳の頃の⼤衆居酒屋は客単価2,000~3,000円でした。その⼤衆居酒屋を卒業した⽅々の居場所を作ろうと、モダンな内装と本格的なお料理を始めたのがきっかけです。今でこそメジャーですが、当時はなかった「和⾷居酒屋」というジャンルを世に⽣み出した⾛りになりました。予想を超えて、割烹に通っていた⼤⼈や、これまで⼤衆居酒屋を使っていた若者に来ていただけるようになり「ミディアム接待」や「アッパーデート」という⾔葉も当店から⽣まれたのです。

私は、料理⼈なので出汁をしっかり引くことをベースにしつつ、洋⾷のような遊びのある盛り⽅をしたら逆に新しく、⼤⼈の⽅には新鮮さを、若い⽅には⾼級感を感じていただけたようです。ヨーロッパで料理⼈をしていた時代に様々な⾷⽂化を体験したことが、既成概念にとらわれないユニークな事業につながったのだと思います。新しいタイプの居酒屋だと評判になって⽕がつきました。

商業施設を中⼼に、多様な業態で飲⾷店を展開されていますね。

初めは池袋のパルコさんから始まり、当時の商業施設では珍しい昼は和⾷、夜はお酒をというコンセプトで「えん」という事業が広がっていきました。2003年には、百貨店に惣菜店を出店すると同時に、⼥性向けのファーストフード「だし茶漬け えん」をヒットさせることができました。

⼤失敗から⼤きく軌道修正したお店が、今のBYOの柱に。

今や国内外に120店舗まで展開されていますが、順調な道のりだったのでしょうか?

実際は、失敗の連続ですよ(笑)ある商業施設のグランドオープンに合わせて、そば粉のガレットのお店を出店したのですが、初⽇から失敗だと分かった時には本当に焦りました。⾃分が考案したお店で、他店より明らかに客数が少ないのです。そこから、視点を変えて3ヶ⽉で業態変更した「おぼんdeごはん」が実は、現在のBYOの柱になっています。運よく逆転満塁ホームランになりましたが、数え切れないくらいの失敗をしています。他にはメニューの誤表記で世間を騒がせてしまったこともあり、⼤変反省しましたね。

中野社⻑は失敗されたら、どのように挽回されるのですか?

「出来ない理由を探すより、どのようにしたら出来るか」を考えて、自分自身に言い聞かせながら、責任から逃げない事が、挽回する近道だと信じて行動してきました。今でもお客様からお叱りを受ける度に、なぜ対応できなかったのかという悔しい思いをしますが、「もう同じ失敗を繰り返さない」と決めています。これらの経験は糧にもなるので、悔しさであり喜びでもあります。

そんな中野社⻑の根底にある“思い”をお聞かせください。

「⼈に喜んでもらいたい」という気持ちです。これは、前述した高校時代の原体験が元にあると思っています。先⽇のこと、リクルート活動しているらしき⼥性のお客様が少し落ち込んだ様⼦で、おぼんdeごはんに⼊店してきました。そして、お⾷事を済ませて退店する時には、ニコニコして帰って⾏かれた姿を⾒て、お腹を満たすだけではなく、気分を切り替えられるサービス業は、何て素晴らしい仕事なんだと改めて感じました。

そして同時に、「お店を長く続けること」も大切にしています。お客様とずっと関係を作り続けるためには、時代とともにお店を刷新して、共感できる価値を届けていくことが大事です。そのためには、日々の失敗を糧にして、変化し続け、その先にある「ありがとう」と言っていただくことを目指しています。

最後に、ご覧になられている⽅にメッセージをお願いします。

いつも⼼がけている⼤好きな名⾔があります。ダーウィンの名⾔ 「最も強い者が⽣き残るのではなく、最も賢い者が⽣き延びるのでもない。唯⼀⽣き残る事が出来るのは、変化できる者である」です。
我々の商売は感性消費に近いので、変化に順応する⼒がいつも必要です。そして、この変化を楽しめることがとても⼤事だと思っています。⼀緒に新しい時代の変化を楽しんで⾏きましょう!

中野耕志(なかの こうじ)/株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社⻑
⾼校卒業後、国内で料理⼈修⾏を経て渡独。現地の⽇本料理店で研鑽を積む。帰国後の1996年、ビー・ワイ・オー に参画。同社が和⾷を中⼼にして業態数・店舗数を拡⼤していくなかで、料理⻑、常務取締役を務める。2021年6⽉、創業者の跡を継いで代表取締役社⻑に就任。