#3 Beyond the Limit

確信と諦めない“粘りづよさ”が
大きな壁を乗り越える力

株式会社ペイロール

代表取締役社長 湯浅哲哉 氏

1990年半ば、世界一複雑と言われ、欧米に比べてデジタル化に遅れをとっていた日本企業の給与計算。ここに大きなビジネスの可能性を見出し、フルスコープ型アウトソーシングという新たなサービスを確立したのが、給与計算業務の実績No.1を誇る株式会社ペイロールだ。

今回お話を伺ったのは、ペイロールの代表取締役を務める湯浅社長。30歳で大手電機メーカーを退社し、ペイロールの前身であるコンフィデンスサービスを4畳半の小さなアパートからスタート。幾度となくピンチを乗り越え、夢を追い続けた文字通り七転び八起きの人生と、その原動力となった自身の中の「Beyond the Limit」を深ぼりする。


天売島の大自然に、心身を鍛えられた小学校時代。

湯浅社長の幼少期についてお聞かせください。

北海道の稚内で生まれました。体が小さく病気がちで、しょっちゅう病院に連れて行かれたものです。教員だった父は、なぜか僻地といわれる田舎ばかりに赴任する人で、父について道内を転々とする幼少期でしたね。

現在のパワフルなご活躍からは想像できませんね。

私が小学校に上がるタイミングで、父の転任で北海道最大の僻地と呼ばれる天売島(てうりとう)というところに移住しました。徒歩で1周40分ほどの小さな島で、漁師の子どもたちは少々気が荒いけれど、友達思いで繋がりが強い。それが僕にはとてもいい環境だったんです。冬はスキー、夏は海で泳ぎ、おやつはウニやアワビを獲って食べました。そうやって自然と体が鍛えられ、気がついたら大人になってからのハードワークにも耐えられる体力が身に付いていました。

中学から一人暮らし。島暮らしとは真逆の東京生活。

中学生からご両親のもとを離れたとお聞きしましたが?

はい。島には高校は定時制高校しかなかったため、中学で札幌に出ました。中学時代は真面目に勉強して進学校の高校に入学しましたが、高校時代はアパートが友達のたまり場になり、停学になっては島から親が謝りに出てくる始末でした。

そこから東京の大学へ進学されたんですよね。

思い返すと冗談みたいな理由ですが、その頃大好きだった歌手のアンルイスに会いたくて、東京のディスコに通ったら会えるかなと(笑)。そんな動機ですから、千葉の工業大学(電子工学科)に入学した後も大学にはほとんど行かず、新宿のディスコでずっと働いていました。

1980s

教授の紹介で東芝情報機器に就職。
SE部署から異色の特需部署へ。

卒業後、「東芝情報機器」に就職された経緯をお聞かせください。

その頃、札幌にいた両親のそばに戻りたくて、北海道に帰って魚屋になろうと思ったんです。それで水産業の会社ばかり受けましたが全滅。途方に暮れていた時に教授の紹介で受けたのが東芝情報機器だったというわけです。

最初の思いとは違う就職が、後々起業する湯浅社長のスタート地点に?

まさにそうですね。最初の配属はCE(カスタマーエンジニア)でしたが、もともと不器用なので人事部長に頼み込んで、北海道へ戻るのを諦めるならという条件でSE(システムエンジニア)に配属されました。仕組みを自分で考えて作るSEの仕事が思いのほか面白くて、3年くらいは仕事が趣味みたいになり没頭しました。

親元か東京かを迫られた結果、自分の道を見つけるきっかけになったんですね。

その通りです。3年目の終わりに東芝本体から移動してきた常務が新しく「特需営業部」という部署を作って、僕を含め同期から三人選抜されました。とにかく好きなことを考えてやってみろと言う部署で、僕たちが考えた手書きの企画書を常務が東芝本体に持っていき、資金を引っ張ってきてはシステムを開発。僕は当時、病院関係のシステムをいくつか商品化して社長賞までもらった記憶があります。

まさに人生のターニングポイントとなる成功体験ですね。

人生が変わった瞬間といえます。「これでいける!」という手応え。この成功体験がなければ、おそらくそのまま会社員をやっていたでしょうね。

30歳で独立。成功と苦悩から得た新たな思い。

就職した時といい、新たな部署への移動といい、人生を変える出会いってあるんですね。ペイロールの前身「コンフィデンスサービス」を立ち上げた経緯をお聞かせください。

当時の電機メーカーでは当たり前でしたが、年功序列の体勢に矛盾を感じ、30歳になったら辞めようと数年前から考えていました。

独立する際に記帳代行業に目をつけたのは?

群馬で記帳代行をやっている知り合いがいて、挑戦してみようというのがスタートでした。会社を辞めると、四畳半のアパートに古いデスクと友人から譲ってもらった小型のオフコンを置き、そこで記帳代行のシステムを作って営業へ。生命保険や外務員の方を中心に少しずつ顧客を増やし、1万数千人にまで個人事業主の顧客を増やしました。

ひとりから始めて、自ら作ったシステムで1万数千人とはすごいですね。

ただ、いくら真面目に記帳を請負っても、お客さまの興味は「税金がいくら安くなるか」ということ。税理士でもない自分が手を出せない部分で、お客様のニーズとのギャップに苦しんだ時期でした。「会社は儲けるだけではなく、社会的意義がなければだめだ」と考えるようになったのは、その頃です。

一番楽しく、一番しんどかった時代。
今も残るペイロールの土台。

記帳代行行から、給与計算に移行した経緯をお聞かせください。

この頃、アメリカの企業にアウトソーシングを視察しに行く機会があり、今に至る転機となりました。給与計算へ移行するための資金調達に苦戦する最中、当時交流のあった人材派遣会社インテリジェンスの創業者、今のU-NEXTのCEO 宇野康秀さんからの支援がご縁で一緒にインフラビジネスをスタート。顧客はほとんどが外資系だったため、日本企業との違いからシステムを見直しては運用、失敗しては改善の繰り返し。どうしたらお客様の満足を得られるか、毎晩夜中まで会議をしました。自分にとって一番楽しい時代だったし、同時にしんどかった時代でもありましたね。

外資企業の基準に鍛えられたという感じですか?

それは事実ですね。1社ずつの利益を追求するよりも、とにかくノウハウを蓄積して顧客の要求に応えられる力をつけることを最優先したんです。今あるサービスのベースは大なり小なり、その時に築いたものと言えます。そのせいでまた赤字企業に戻ってしまいましたけどね。

1990s
2000s

運命を変えたビッグチャンス。
やり遂げた先に、見えたもの。

これまでで最大のピンチと、それをどう乗り越えたかについて教えてください。

度重なる赤字からインテリジェンスを離れ、パソナとADP(Automatic Data Processing, Inc.)のもとで経営の立て直しを図っていたころ、ペイロールの運命を大きく変える仕事が舞い込みます。世界的ファストフードチェーン、日本マクドナルドからの突発的なオファーです。与えられた期限は四週間。大きな部屋にPCを大量に並べて24時間体勢で処理。マクドナルド全体の給与計算を受注したのは、その1年後でした。

大きなチャレンジをやり遂げたことで、何が変わりましたか?

一気に黒字企業になったのはもちろんですが、やはりあれほどのビッグカンパニーの給与計算を一括でアウトソーシングできるのなら、という世間の認識が変わりました。

お仕事において、湯浅社長が大切にされている信条やテーマは何ですか?

確信があれば多少の障害があっても諦めずに続ける。それが何より大切にしていることです。僕は30歳で起業し、32年かけて62歳で上場しました。昔から僕のことを知っている人にはよく「しつこい」と言われます。自分の進めてきたビジネスモデルに確信を持って続けてこられたのも、しつこい性格の賜物と言えますね(笑)

クレアシオン・キャピタルと目指したIPOは、ペイロールにとってどのような経験でしたか。

過去2回、IPOを一緒に目指したファンドがありましたが、それぞれ自分の事業収益を上げるという目的があるため、正直そこにブレが生じるところがありました。今回クレアシオン・キャピタルさんとは、掲げたゴールが共有できていて、そこに向かって一緒にサポートしてくださったことが、今までとの大きな違いでした。本当に感謝しています。絶対的に信頼関係が築けたことが、今回のゴールにつながったのではないかと感じています。

ペイロールの今後についてお聞かせください。

欧米には、私たちと同じようなビジネスで大変大きな成功を収めている企業がいくつもあります。いずれ欧米のような企業を目指すのであれば、給与計算のみに止まらないHRテック【Human Resources Technology】などの領域にマーケットを広げなければいけません。かつ、今1000人以上の大企業に提供しているフルスコープのアウトソーシングを、500人規模の企業にも提供できるようにしたいと考えています。やれることはまだまだたくさんありますよ。

後世に繋ぎたい企業を目指す。それこそが人生の醍醐味。

湯浅社長ご自身の将来の夢や目標は何ですか?

上場したことで、投資家の方々の当社への期待の大きさを実感いたしました。僕は「日本になくてはならないソフトインフラ企業になる」という目標を掲げています。そうなれるよう、これからも成長し続けていきたいと思います。

Beyond the STAGEを経た先輩として、このページをご覧になっている方にメッセージをお願いします。

今は、戦略的にもマーケット的にもビジネスモデルを作りやすい時代。資金の調達方法もたくさんあります。昔は失敗すれば全て失う博打のようでしたが、今は何回もトライできるのだから、思い切ってやりなよ!と声を大にして言いたい。更に言うなら、作ったビジネスモデルがちょっと成功したらすぐ売ってしまっては事業として面白みがありません。後世につないでいくビジネスこそ人生の醍醐味です。そして、信じたことを諦めないでやり続けること。さすれば、必ずどこかで実ります!

湯浅 哲哉(ゆあさ てつや)/株式会社ペイロール 代表取締役社長兼CEO
大学卒業後、東芝情報機器に入社。退社後に記帳代行ビジネスを立ち上げ、1997年には事業主体を給与業務のアウトソーシングに移行。2008年2月に社名・体制を現在の形に変更し、日本で初めて給与業務に特化した「フルスコープ型アウトソーサー」として、現在、100万人(2021年3月31日現在)にサービスを提供している。2021年6月東証マザーズに上場。