#8 Beyond the Border

関係する一人ひとりが、
幸せになれる策を考え抜く

株式会社BJC

代表取締役社長 山本 将孝 氏

『美と健康の革新。』と掲げた企業スローガンを、流通システムと商品開発において、行動と結果で示してきた株式会社BJC。ヘアサロンとエステサロンという、似て非なる両プロフェッショナルチャネルを業界に先駆けて切り拓き、履くだけで骨盤を矯正する靴下「エアライズ」、まつ毛美容液の先駆的な商品「ラッシュアディクト」、美容成分を閉じ込めた画期的な自社商品「V3ファンデーション」など、ユニークな商品ラインナップで爆発的なヒットを生み出してきた。2014年の創業から7期目の2020年度には、売上高96億円を記録している。

そんな驚異的な成長を続けるBJCを創業期から支え、2022年5月に代表取締役に就任した山本将孝社長が、これまで乗り越えてきたものや、行動哲学とは何か。そして、未来へどう挑んでいくのか。山本社長が考える、壁の乗り越え方「Beyond the Border」に迫る。


曲がったことはしたくない。
そして、濃く人と接したい。

厳格な父、兄姉と

中学時代は陸上で大活躍

高校時代はサッカーに熱中

山本社長は、どのような子ども時代を過ごされましたか?

生まれは山口県下関市の漁師町で、三人兄弟の末っ子です。そのためか、幼少期はいつも母親にべったりの甘えん坊でしたが、成長するにつれて、海や山で遊ぶようになりました。「行っちゃだめ」という場所に興味を引かれて行ってしまう、好奇心旺盛な子どもでしたね(笑)

その一方で、外航船のエンジニアだった父親はとても厳格で、「曲がったことをするな。嘘をつくな」と徹底的に躾されました。怒った時の雷がすごくて近所の人が止めに来る程でしたが、父親の教えのおかげで、ごまかしや嘘を律する心が育ったと思います。

中学では野球部に入部し、マラソンが盛んな町で、冬は陸上部で活動していました。下関市のトップ10に選ばれて山口県の駅伝大会に出場するなど、中学では陸上に、高校からはサッカーに熱中していました。地元は信号機が一つしかない小さな町だったので、同級生は保育園から高校までずっと一緒。心を許せる友人は高校時代までに出来たのですが、人数が少なくとも、濃く人と接したいという気持ちが今もあります。

大学生時代に熱中したものは?

私は高校卒業後、プロサッカー選手とモデルを目指して上京し、大学の経済学部に入学しました。その後、居酒屋のアルバイトで正社員並みに働いて、お金を貯めることが楽しくなり、大学3年の頃には月給70万円程になっていました。実は元々、ほしい物が買えるお金という存在が大好きだったのですが、「無駄遣いになるのでは…」という気持ちが次第に強くなり、大学卒業時には1000万円の貯金がありました。今では、この貯金をさらに100倍にして、私が他界した時に二人の息子が初めて父親の貯金を知り、相続税の大きさを痛感させて、お金という存在の教育をすることが、私の夢の一つです

お客様とサロンのストーリーをつくり、
一店舗ずつ増えていった信頼関係。

シャンプーメーカー時代

初めての就職先での挫折、そして救いとは?

新卒でシャンプーメーカーに入社した後、営業の実地研修も兼ねて、九州エリアを統括する販売会社で働き始めました。シャンプーを持って、美容院に飛び込み営業するのですが、当たり前のように門前払いされます。電話でアポイントさえもなかなか取れない状況になり、社長に追い出される始末で、熊本の営業所に飛ばされました。

その熊本営業所で、運命的な出会いがありました。当時の所長で、後にBJCを創業する津下康弘です。津下と過ごした一週間、私を自宅に泊めてベッドも提供してくれて、ご馳走だけでなく、ゴルフやテニスも教えてくれるなど至れり尽くせりで、人間としての大きさに一目惚れしました。

何よりも、津下の営業を目の当たりにして、仕事の面白さに目覚めていきました。津下は、こちらが売りたい物を売るのではなく、まず相手が何を求めているのかを引き出していきます。その上で、相手が進みたい方向に商品を添えて提案するスタイルです。美容院ごとで、狙うお客様ターゲット、適した商品の配置などが異なるので、一店舗ごとにトークが変わります。この原体験から、「商品を売るのではなく、商品を通してお客様とサロンのストーリーをつくる」という意識が芽生え始めました。

どのようにヘアサロンとの信頼関係を築かれたのですか?

私は、一般的には厳しいと判断される状況であっても、一概に無理だとは判断しません。例えば、客単価が2,000円を切る安い価格帯のヘアサロンに対して、1万円近くする化粧品を販売する話になった際も、“やり方を考えれば、必ず実現できる”と信じていました。高くても化粧品を売りたい美容師はいましたし、お客様の履歴を分析すれば、高額のお金を使ってくださっている優良顧客を抽出できます。表面上の客単価に縛られず、俯瞰で見て考えることで、そこに活路が見出せます。

その後、美容ディーラーに転職した際には、ヘアサロンの中をひっくり返してでも売上を見て、取扱商品を通して、お客様とヘアサロンの関係性を再構築するという仕事スタイルになっていました。このように美容業界で12年間、一店舗ずつヘアサロンと信頼関係を築いて生まれた多くのつながりが、後にBJCの強みとなるプロフェッショナルチャネルの一旦を担うことになります。

どんな人ともフェアに向き合う。
それが、全員のWINにつながる。

2014年に創業したBJCへ参画され、躍進が始まりますね。

BJCは、代表の津下が築いてきた化粧品のネットワークと、私のヘアサロンのネットワークをミックスさせた、今までの美容業界にはない市場へのアプローチでした。当時は、ヘアサロンで売れるものが、エステサロンでは売れない。エステサロンで売れるものが、ヘアサロンで売れないのが顕著な時代でした。そのため、BJCも始めから順風満帆だった訳ではありません。今でこそ大ヒットしているまつ毛美容液も、デパートコスメで購入するイメージが強すぎて、なかなかヘアサロンで売ってくれませんでしたが、メーカーのプロのお言葉を借りながら、少しずつ取扱店を増やしていきました。

BJCという企業と、私個人の観点で大きく重なるのは、“どんな人とも分け隔てなく向きあう”点です。サロン商品の卸販売でありがちなのが、「この商品を取り扱えば、ヘアサロンの利益率が上がりますよ」といった、サロンオーナーに重点を置いた営業です。そうなる気持ちも分かるのですが、私たちはまず「この商品があれば、お客様が家で幸せになる時間を作れます」といった、エンドユーザーを起点に商品を提案します。エンドユーザーであるお客様が気に入れば、自ずとヘアサロンの売上が上がって、結果的に取扱代理店の収益にもつながります。このように、全員がWINになる考え方もBJCの根幹にある特徴です。

これまでの仕事で経験された、最大のピンチは?

実は、大失敗があります。BJCに入社した当初は、深く考えもせずに言葉が先走ってしまうところがあり、時に失言してしまうなど、津下に大きな迷惑をかけたことがありました。その時々でも、津下は責任を取ってくれて、一緒にお詫びにも行ってくれました。

一度起こしてしまった失敗の責任を取ることは難しい。そう悟った私は、頭を次に切り替えるようにしていました。そんな時に、BJCと取引のあったメーカーCHARIS&Co.(カリス&シーオー)の副社長であり、商品の目利きで美容業界の群を抜いていた藤木貴子先生と、代表津下の強みを融合させれば、何か面白いことが起こるのでは?という考えに至りました。つまり、藤木先生の目利きで厳選した美容商品を、津下と私のネットワークであるヘアサロンで販売する。これが、後の「ラッシュアディクト」や「V3ファンデーション」の大ヒットを生み出し、BJCの大きな飛躍につながりました。

ラッシュアディクト

V3ファンデーション

私は、究極の中間管理職。
誰かを泣かせる仕事は絶対しない。

社長に就任された、今の気持ちをお聞かせください。

代表になった今も昔も、私自身は“究極の中間管理職”だと思っています。美容業界に入った頃から、優秀なメーカーの社長やサロンオーナー、代理店のトップ営業パーソンに囲まれてきました。これからも「どうすれば、みんなが楽しく売れるのか?」を妄想して、誰も泣かない仕組みをつくり続けていきます。もし、誰かが泣かないとビジネスが進まない場合には、まずは自分がそこを担いたい。取引先でも社員でもなく、「死ぬなら上からだ」という思いが、私の中にはあります。

その点、メーカーとヘアサロンの間に挟まれる代理店は、ビジネス的に辛い状況に置かれやすい。だから、在庫リスクを極力減らしつつ、広告などのツール制作もBJCが背負うことで、代理店の負担をカバーしています。それがひいては、商品の売りやすさにもつながります。『エンドユーザーからメーカーに至るまで、誰かを泣かせるような仕事は絶対にしない』これは、津下前代表から引き継いだ、BJCと私の行動原則です。

新体制のBJCは、美と健康をどう革新していきますか?

BJCは、ヘアサロンとエステサロンのB2B流通における、まつ毛美容液やファンデーションの販売で、売上100億円弱を達成しました。確かに、驚異的なスピードで成長してきましたが、「まだまだいける」というのが本心です。女性は、衣食住と同じくらいに“美”も必要としています。この「ずっと綺麗でありたい」という願望を叶える、適正な商品を世に発信していきたい。BJCが取り扱う商品は、頭の先から足先までなので、チャンスはいくらでもあります。

私の発想の源は、いつも“誰かの笑顔”です。アイデアを考える時は、関わる全ての登場人物を紙に書いて、一人ひとりにどんな喜びを生み出せるか、どんなお願いをするかなど、相関図をつくります。また“考えることをやめなければ、チャンスはある”と考えています。例えば、コロナ禍であれば、マスクで口元は隠れる反面、目元の印象が重要になり、まつ毛美容液をすすめることができます。

このような発想で、コロナが蔓延した2020年に、BJCは多くのエステサロンとヘアサロンを救うことができました。ニュースで話題になった飲食店だけでなく、サロンも大きなダメージを受けており、当時先駆けだったオンラインアプリを使って、商品販売をサポートするセミナーを全国のサロンに発信したのです。本来なら、交通費も時間もかかる北海道から沖縄まで、2,000人以上のサロンオーナーに参加いただき、実際に利益向上に繋げることができました。逆境はむしろ思考のタガが外れて、可能性が広がります。

ブームで終わらず、文化となる化粧品をつくりたい。

共にIPOを目指す、クレアシオン・キャピタルの存在とは?

私は、弥生時代から続く“お米”のように、ブームで終わらずに文化となる化粧品をつくりたいという思いがあります。そのためにも、IPOは重要です。クレアシオン・キャピタルは、「そこまでしてくれるの?」と驚いてしまうほど、BJCのことを真剣に考えて伴走してくれる、心のあるファンドだなと感じています。例えば、売上が予算通りに上がらなかった時には、徹底的にトレンドを分析して理由を炙り出すなど、振り返りポイントをつくってくれます。失敗しても必ず次につながるので、クレアシオン・キャピタルと二人三脚で事業を進め出してから、無駄になったことが一度もありません。本当に貴重なパートナーですね。

最後に、ご覧になられている方へメッセージをお願いします。

「BJCで一番驚いたのは、山本さんが変わったこと。人間って変われるんだね(笑)」と、懇意にしている方々からよく言われます。劇的に変わったと自覚したのは、6期目で常務になった時でした。「希望を持って入社し、ついて来てくれる子たちを、絶対に幸せにしないといけない」と、自分の中でスイッチが入りました。

私は、メーカーやサロン、代理店や社員など、多くの人間たちに挟まれるサンドバック状態でキャリアを歩んできました。そこで常に意識してきたのは、一スタッフから取引先の社長まで、どんな相手であっても忖度せずに向き合う姿勢です。すると、それぞれの立場で大切な意見や思いがあり、一人ひとりに人生があって、全員が主人公であるという思いに至りました。これを読んでいる方も、人生真っ只中の主人公です。もし、今乗り越えたい壁があるなら、関わる人や物事などを書き出して、全体をフェアな目で見渡してみてください。そして、あきらめずに考え抜いてみてください。きっと活路が拓けると思います。

山本 将孝(やまもと まさたか)/株式会社BJC 代表取締役社長
1979年6月9日生まれ。大学卒業後、シャンプーメーカーの営業職に就いたことをきっかけに美容業界へ。メーカー勤務時代に、研修先の熊本で、後にBJCを立ち上げる津下康弘と出会う。2014年5月に津下が創業したBJCへ、同年8月にジョイン。22年5月1日、専務取締役から現職の代表取締役社長に就任。今年(2023年)で、美容業界20年目を迎える。